魍魎跋扈(もうりょうばっこ)
その後——
ヤヴイヌの霊は、ついに村長の家の天井裏に住み着いた。
朝、冷蔵庫を開けると中の食材が無残に荒らされ、冷凍していた魚が半解凍で戻されていた。
「……これは……加熱せよ、ということか……」
ある晩には、冷蔵庫の扉が勝手に開き、霊の顔が浮かび上がった。
「……今日は、煮込みハンバーグがいいなぁ……デミグラスのやつ……」
「もうええ加減にせぇよお前はぁぁぁ!」
と叫ぶと、霊は「シャーッ!!」と威嚇し、天井裏へシュルシュルと戻っていった。
村長は完全に生活の主導権をヤヴイヌの霊に奪われていた。
***
その頃、村の廃墟では大きな決意が固まりつつあった。
冴子、ナナハン君、マキ、修一郎の4人は、今や村人の信頼を完全に得ていた。
「もうこの村、ほんまに変わってきたな」
「……変わるべきやったんや、ずっと前にな」
そして——
明日、村では“ジョン祭り”が開催される。
ジョンの斧を祀る、一年に一度の祭礼。
4人と村人たちは、その機会を逃さず、村長とその取り巻きたちに詰め寄り、支配の終焉を告げる計画を立てた。
「やるなら明日や。みんなで詰め寄って、村長を追い出す」
「ええのんか?ほんまに……」
「もう、ええんや。わしら、変わらな」
作戦は緻密に練られ、当日。
村の広場に設けられた祭壇の前に、村人たちは静かに集まり、そして一斉に村長とその取り巻きを取り囲んだ。
「なんの真似じゃ……」
「もう、あんたにはついていかん。うちらは、自分の舌で味わって、自分の心で決める」
村長は怒りに震えながら叫んだ。
「愚か者どもがぁ!ジョン様に呪われるぞ!お前らみんな、化け物になってしもうたんじゃあああ!」
極食裁決(ごくしょくさいけつ)
その時——
村人たちは怒りに満ちた眼差しで村長・嘉兵衛を囲み、やがて誰かが言った。
「……木に、括りつけてまえ」
いつの間にか準備されていた縄が村長にかけられ、祭壇横にそびえる御神木に縛り付けられる。
その足元は切り立った崖になっており、その下には深く静かなダム湖が広がっていた。
「飢えさせやがって」「子供にまであんなもん食わせやがって」「肉を隠してたんやろ!」
次々と飛び交う怒号。
やがて誰かが叫ぶ——
「気ぃ済んだら、落としたれ!」
「落とせ! 落とせ!」
村人たちが一斉に叫ぶ。
だが村長は、なおも強気だった。
「やれるもんならやってみろぉ! ジョン様が見とるんじゃああああ! お前ら全員、呪われて地獄に堕ちろぉぉぉ!!」
その時——
ゆっくりと、冴子が一歩前に出た。
風が頬をなで、夕焼けがその背に長い影を落とす。村人の叫びも、風の音も、すべてが遠くなっていく中——彼女の声だけが、確かに、届いた。
「村長……あんたの考え、間違っとるわ」
ざわついていた空気が、凍るように静まった。
「料理っちゅうのはな、無理やり腹を空かせた者に押し付けるもんやない。ただの支配や。人の腹を、心を、空っぽにして、そこに自分の価値観を詰め込むなんて……そら、料理やのうて独裁や」
村長の目がぴくりと動く。
冴子は一歩、また一歩と村長に近づきながら、言葉を止めなかった。
「ほんまの料理はな……食べる人が、その人らしいままで、“うまいなぁ”って言えるもんなんよ。贅沢でも、派手でもない。そっと寄り添うように、相手の鼓動を聴くように、差し出すもんやと思う」
その声は、誰に向けられたものでもなかった。
むしろ——
「……あたしはな、忘れとったんよ……。ジョンに言われた言葉、ずっと心に引っかかってた。あんたの言葉にも傷ついて……そやけど、それを理由に、私は“完璧な味”を押し付けようとしてた」
冴子の両手は、震えていた。目を伏せたまま、唇を噛みしめながら、続けた。
「怖い料理やった。あたしの料理……怖かったんよ。食べ手を見とらんで、自分の腕ばっかり、評価ばっかり、見とった……」
その目に涙が浮かぶ。
「けど、この村に来て……皆と、笑って食べて、泣いて食べて、気づいたんよ。ほんまは、料理って、人を癒すもんなんやって」
風が吹き、木の葉がざわついた。
「……あたしは料理人失格や。けど、もう一度やり直したい。ほんまに人のための、誰かの一食のための、そんな料理を作りたい」
彼女の声はかすれ、しかし確かな力を持っていた。
その言葉は、まっすぐに村長の胸へと刺さった。
村長は目を見開いたまま、声も出なかった。長い間、自らの正しさを疑うことなく君臨してきたその心に、今、初めて別の光が差し込んだようだった。
その顔が、ゆっくりと崩れていく。
怒りとも憤りとも違う——初めて見るような、穏やかで、脆く、年老いた一人の男の顔。
「……おまえ……ええ目をしとるのぅ……」
かすれた声で、ぽつりとこぼす。
「……なら、話してやらなあかんな……この村のことを……」
村長は、誰にともなく呟くように語り始めた——
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