夜宴密会(やえんみっかい)
ヤヴイヌの死は、彼らにとって衝撃だった。
翌朝になっても誰も口を開かなかった。囲炉裏の周りには空っぽの器だけが残され、女将は無言で湯を沸かしていた。
ふと家の裏手から、ひそひそ声が聞こえてきた。
話していたのは、まだ若い夫婦だった。二十代前半、男はやせ細った体にくたびれた布のような服を羽織り、頬はこけていた。
その男は、村で暮らす若者・誠司(せいじ)だった。
妻の絵理が最近、母乳が出なくなったという。食事は極食しか与えられず、日に日に顔色が悪くなっているのだと。
「このままじゃ……うちの子が……」
冴子は、聞いてしまった以上放っておくことも出来まい・・。と思った。
裏手に回ると、二人に話しかけた。
「夜中に、嫁さん連れて村はずれの廃墟まで来なさい」
「急に何ですか・・?」
二人は驚いて不安そうな表情で冴子の方を見ている。
「悪いが話は聞こえてしもた。悪いようにしないからあなたたちは言う通りにしなさい」
「えっ……村長にバレたら……」
「大丈夫や。誰にも言わんことや」
誠司と妻は戸惑いながらも、深く頭を下げて去っていった。
***
その夜、冴子・マキ・修一郎・ナナハン君、ヤヴイヌだったものの5人は、廃墟となった古い蔵にいた。山で仕留めた鹿の腿肉が焚き火でゆっくりと焼かれ、香ばしい匂いが周囲を包んでいる。
仕込みは完璧だった。
鹿肉は塩麹に一晩漬け込まれ、木炭の強火で外はパリッと、中はしっとりジューシーに焼き上がる。
仕上げに山椒と柚子の皮をあしらい、冴子特製の甘酒味噌を添えた。香りだけでよだれがこぼれそうな逸品だ。
「来るやろか……」
マキが不安げに呟いたその時、蔵の戸が軋む音とともに、誠司と、その妻・絵理が姿を現した。彼女の顔色は悪く、痩せ細って目も虚ろだった。
「……おいで。座りなさい」
冴子が手を差し伸べる。
絵理が口に運んだ一切れのジビエは、じゅわりと舌の上で広がった。
脂の香りが鼻腔を抜け、歯ごたえはまるで和牛のように繊細。
それまで忘れていた“味”という感覚が、絵理の脳を直撃した。
「……こんなに……おいしい……もの……」
絵理の目に、涙が浮かんだ。
誠司もまた、肉を噛み締めた瞬間、思わずうなる。
「これが……ほんまの……極食……」
冴子は頷く。
「そうや。ほんまの料理は、人を笑顔にするもんや」
「明日、誰か一人。信頼できる村人を連れてきて。そしたら、またごちそうしたる」
誠司は震えるように頷いた。
そのやりとりを少し離れた岩に座って聞いていたナナハン君が、唐突に言った。
「……ヤヴイヌ、もう食えへんのかな」
「……は?」
マキが眉をひそめる。
「だって、あいつもう動かんし、燻せばクセも抜けるやろ。シチューとか、タタキとか」
「最低やなあんた……! あいつ、私らの仲間やろ!」
「だからやないか。仲間やから、無駄にしたらあかんやろ」
「ちょっと待ってや、それとこれとは——」
「いやいや、ワシも気になるで。あの脂肪、たぶんエエ出汁でる」
「修一郎!?」
「いや、あくまで仮定の話や!倫理的にNGやって!」
「なんやこの議論!アホちゃうか!」
「“究極の味”を探してるんやろ?ならヤヴイヌは——」
「やめぇぇぇぇぇえええ!!」
マキの一喝でようやく静まり返った蔵。
冴子は黙って火を見つめていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……食べもんは、命や。そやから、命は選ばなあかん」
ナナハン君はしばらく黙っていたが、やがて立ち上がり、火に薪をくべた。
「……食っちまえばいいのに。ああなったら所詮肉だぜ?」
蔵の空気が、再び静まった。
その夜、誠司は絵理の手を握りながら、心の中で誓っていた。
——明日、必ず、誰かに伝える。ほんまの味を、ほんまの食を——。
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