極食ノ村5【アニマルスパイヤブイヌ】

喪失の味(そうしつのあじ)

ヤヴイヌの整い

扉が閉まると、周囲の空気が沈黙に包まれる。誰もが耳を澄ませたが、堂内からは物音ひとつ聞こえなかった。

堂内には香が焚かれていた。不気味な紫煙がゆらゆらと揺れ、空間は酩酊感に包まれる。ヤヴイヌの目がうつろになり、ふわりと身体が宙を舞うように椅子へと座り込んだ。鼻先に漂うのは、干した蓮根と墨汁と湿布が混じったような不可思議な香り。

「あなたは、まだ“真の味覚”には辿り着いていません。そして何より……股下が異様に短い」

ヤヴイヌの眉がぴくりと動いた。「な、なんだって?」

煙に混じる香に頭がぼうっとし、幻視の中に吸い込まれる。

——そこは、巨大な審査会の会場。壇上に立ったヤヴイヌの足元がざわつく。

「……ん?」

観客たちがヒソヒソと囁く。「あの人……脚、めっちゃ短くない?」「味の語彙はすごいけど……椅子に座ったら地面に足つかんやろ」

ヤヴイヌはテーブルクロスを引っ張って隠そうとするも、どんどん脚が縮んでいく幻。

「違う、これは幻覚だ……幻覚だって……!」

次に現れたのは料理評論家仲間たち。皆、スタイルが良く、長身で足がスラリと伸びている。

「お前さぁ、いっつも『口内で油絵が広がる』とか言ってるけど、現実見たほうがいいぞ?」

「股下が短すぎて味覚の深さも浅そうっていうか〜」「てか、テイスティング中に正座すんなよ」

幻のヤヴイヌは抗議するが、声が出ない。

「違いません。それが、あなたの“味覚バランス”です」

場面が変わり、今度は試食の現場。立って試食するとテーブルの高さに届かず、味噌汁をすするたびに顎を天に向ける羽目に。

「こんな角度で吸う味噌汁は味がわからんだろ!」

「それが、あなたの“真実”です」

彼の前には巨大な味覚チャートが浮かび上がり、項目のひとつに「股下比率」と書かれていた。そこだけ赤字で「要改善」。

「ほっといてくれ……味は脚と関係ないんだ……ないはずなんだ……」

だが、どこからか声がする。「味わう姿勢がなければ、味覚も育たない。まずは椅子に座れる脚を得るのです」

「……わたしは……脚からやりなおさくてはいけないのか……」

——刷り込み、完了。

修一郎の整い

次に案内されたのは、修一郎だった。堂内に入ると、同じく紫煙がたちこめていたが、香りはどこか安酒のようで、喉元がヒリつく。

「あなたには、アルコールで鈍った舌がある。そして何より……あなたは変態コスプレイヤーで、常習的なセクハラ体質です」

「なっ……なにを……」修一郎の目が泳ぐ。煙に含まれる成分が脳を包み、彼の意識は夢とも現実ともつかぬ世界へ沈んでいく。

——そこはなぜか社内会議室。スーツの社員が整然と並ぶ中、修一郎は蛍光黄色のベストに黒いズボン、黒いシャツ、そして黒いマスクという出で立ちで立っていた。

「……えー、本日の議題は……」と喋り出すと同時に、椅子の下からジャックダニエルのミニボトルがゴロゴロと転がり出る。

社員たちは一斉にドン引き。「また飲んでる……」「昨日も女子更衣室の前にいたらしいぞ」

「違うんや、ワシは純粋に料理の評価を……」

「このアル中!」

「酔って出勤なんて気がふれてはるわ」

「変態!」

「変態コスプレイヤー!」

女子社員たちがここぞとばかりに叫んでいる。

「君はなぜ工事現場の格好なのかね!」部長の声が聞こえる。

すると、幻のマキが現れ、料理本を持ったまま尻を押さえる。

「触ってばっかで、詩どころちゃうやん……」

そこに巨大な評価パネルが降りてくる。

・アルコール依存度:★★★★★★★ ・不適切発言:★★★★★ ・職場内セクハラ記録:記録更新中 ・意味不明なポエム:無限増殖中

「うそや、これは陰謀や……」と呟く修一郎の周囲に、今度は各種制服のコスチュームが舞い始める。「セーラー服」「看護師」「着ぐるみ」——そして「料理人(マキモデル)」まで。

「お前の評価は、全部酔った上での妄想やったんやで」と声が響く。

最後に、幻のマキがそっと囁く。「シュウちゃん、ほんまに……ただの変態や」

——刷り込み、完了。

女将の整い

女将が堂に入ると、香はこれまでよりもさらに深く、重たい匂いを放っていた。炭と焦げた椎茸と、涙を含んだ味噌のような、懐かしくも悲しい香り。

「……ジョン……」

誰に呼ばれたわけでもないのに、女将の唇がその名をつぶやいていた。

—あれはまだ、女将が“若女将”と呼ばれていた頃のこと。

家族は皆、優しかった。父は寡黙だが温かく、母は料理が得意で、兄は漁師として毎朝舟を出していた。民宿は小さくとも繁盛しており、女将もその味を継ぐことに誇りを持っていた。

だが、ある晩やってきた男——ジョン。

名刺も持たず、口コミだけで訪れたというその男は、最初から不遜だった。

「量が足りねえな。こんなもん、腹の足しにもなんねぇ」 「味?……薄い。出汁が泣いてる」

ひとつひとつの料理を、まるで嘲笑うように貶した。

「この民宿の料理が“家庭の味”ってやつか。なるほど、だからこそ凡庸なんだな」

女将は悔しくて、何も言い返せなかった。ただ、黙って笑っていた。

だが、彼の暴言は止まらなかった。

「俺はね、量がすべてなんだよ。料理ってのは“満腹”になってこそ意味がある。ちまちま出すな。どーんと、腹が裂けるまで出してこそ“歓待”だろ?」

女将の作る繊細な小鉢の数々は、一蹴された。だし巻きも、お吸い物も、味噌漬けも。

ある晩、ジョンは厨房にまで押しかけてきた。

「味見だよ、料理人なら出せるだろ? 俺に料理人の誇りってやつを見せてみなよ」

彼は手荒に鍋の蓋を開け、まだ仕込み途中の煮物を掬って床にぶちまけた。

「……こんなもん、犬も食わねぇ」

——父は怒鳴って止めに入った。

——兄は、殴ろうと拳を振り上げた。

——母はおびえ切って泣いていた。

それでも、ジョンは笑っていた。

「お前ら、食に対する覚悟がねぇんだよ。俺は本気で“食”に生きてんだ」

「明日は必ず腹が裂けるほど飯を食わせろよ」

兄は翌朝、嵐の中を無理をして舟で出たきり戻らなかった。

ジョンが去った後、すべてが壊れた。

兄は翌朝、嵐の中を舟で出たきり戻らなかった。

母は拒食症になり、徐々に口に物を入れなくなっていった。

父は酒に沈み、女将は……厨房に立てなくなった。

「私は、料理を信じていたのに……」

——香の煙が、女将の頬をなでる。

「あなたは、過去の傷を“完璧”という仮面で隠している」

「違う……わたしは、ただ……正しい味を……」

「ジョンを許せていない。その怒りを、すべて“献立”に閉じ込めている」

「違う……! 私は……私は……っ」

煙の中に、ジョンの笑い声がこだました。

「よう、また味噌汁ぬるいぞ」

女将は震えた。

「私は、あの人のせいで……家族を……」

その時、女将のおぼろげな意識の中である声がこだました。

「ブヒー!料理は量がすべてだろうが!」

女将の中で何か一つの糸がつながったような気がした。

出会った時から嫌悪感があった。まさか——そんな・・。

涙が零れ落ちたその瞬間、香がふっと消える。

「——整い、完了」

次回、マキとナナハンに続く。

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