極食ノ村1【アニマルスパイヤブイヌ】

第一章 夢幻泡影

海からの風が旅館の障子をやさしく揺らしていた。波の音と、杉板の床を軋ませる足音だけが、夕暮れの静けさに溶けてゆく。

——それは、偶然のようで、どこか必然めいた出会いだった。

ここは「かわむら」。日本海にぽつんと佇む、美食家たちのあいだで密かに語り継がれる料理宿。瓦屋根にこけむす庇、庭の井戸は今も手汲みで、夜は囲炉裏の火が心地よく軋む。

その宿に、五人の客が集った。

ヤヴイヌ。白目を向いて料理を語る男。評論家を名乗りつつも、素性は曖昧で、どこか諜報員めいた気配を纏っている。 ナナハン君。レスラーのような巨体に、異常な量への執着。屁をコントロールできる。 マキと修一郎。長年の付き合いを装いつつ、旅館の帳場で指を絡ませていたその関係は、やや背徳の香りがした。 そして女将・冴子。氷のように凛とした立ち姿と、目に宿る深い情念。それは「味」を超えた何かを追っている者のまなざしだった。

囲炉裏にかけられた土鍋からは、磯の香りと、炊きあがる甘鯛の白身がほぐれていく音がしていた。 ——が、静かな食事になるはずもない。

「ブヒー!!」 ナナハン君の咆哮が室内の空気をかき乱し、マキが眉をひそめ、ヤヴイヌの詩的解説は無残に遮られるのだった。

・・・何かが始まりそうな夜だった。

***

朝の光は静かに障子越しに入り、旅館全体を白く滲ませていた。

ヤヴイヌは、早くも身支度を終え、館内の一番奥へと足を運んでいた。廊下の突き当たりにある書庫。そこは木の匂いと湿った紙の気配が立ち込める、小さな洞のような空間だった。

書棚には背表紙の文字がかすれた古書や、帳簿、日記帳の類が乱雑に並んでいた。 彼の指が一本、なにかに触れる。

——それは、厚手の和紙で綴じられた、一冊の黒い記録帳だった。

『極食ノ記 明治三十一年』

ぱらり、とページを繰ると、煤けた筆文字が躍っていた。

「この村には、美味の終着がある。  されど、口にした者は二度と此処を離れぬ。」

ヤヴイヌの指が止まった。

「まだ……残ってたのか、こんなもん」

思わず、息を呑んでいた。

「それ、よう見つけたなぁ」

背後から、低く乾いた声がかかった。

女将だった。藍の割烹着を肩で軽く払いながら、書庫の敷居にもたれている。

ヤヴイヌは振り返る。「これは……本物か?」

「さぁな。でも、ワシにとっては、夢みたいなもんや」

女将は足音を立てずに彼の隣まで来ると、そっとそのページに目を落とした。

「——“極食ノ村”。美食を極めた村。何百という料理人があこがれ、けど誰も辿り着けへんかった、幻の集落や。ワシはな、若い頃からずっと思てたんや……あの村、まだ沈んでへんのとちゃうかって」

女将の目は、昔日の灯を映しているようだった。

「明治の末に、あの村は国のダム計画に反対してな。『この土地の山菜と水がなければ美味は作れん』言うて、立ち退きを拒否して、役人の命令を無視したらしいわ。そんで結局、放水されて……村は湖の底に沈んだいう伝説や」

彼女はそっと本を閉じた。

「味の先にあるもんが知りたい。ほんまに“究極”があるんやったら、料理人として、一度は見届けなあかん。……それだけや」

***

その晩の夕餉は、囲炉裏端で始まった。

炭の音がパチパチと跳ねる中、炊き上がった白飯と、能登の岩海苔を煮込んだ汁。香の物は干し柿の粕漬け、焼き物には、脂の乗った鰆がほどよく焦げていた。

マキが器を持ち上げ、目を細める。

「……海の、うつろい。しょっぱいだけやない。磯の名残と、陽ざしの気配が、こっそり混じってる。秋が、春に未練を残してるみたいやわ」

「何やそれ、ポエムかい」

ナナハン君がうなずきながら、ぐちゃぐちゃに飯と汁を混ぜる。

「けど、足りねぇな。これじゃ…魚の死体の破片で味ごまかしてるだけだ」

「死体言うなや!」

マキが箸を止めると、ヤヴイヌが静かに声を乗せた。

「——“極食ノ村”に行くのはやめたほうがいい」

一同の手が止まる。

「俺は若い頃、一度だけ鳥居を見た。山ん中で、霧の裂け目から。でかい鳥居と、その向こうに石畳の参道。……でもな、何かが“呼んで”た。引き返して正解だったと思ってる」

「それ、演出やろ。スピリチュアル商法みたいなもんや」

修一郎が鼻で笑いかけるが、ナナハン君が「変態野郎」と切り捨てて遮る。

「行こうぜ。なぁにが呪いや霊だよ。肉だろ? 肉があれば勝ちだ」

これだけシンプルな思考なら、人生は幸せなのかもしれない。

***

翌朝、早霧の中でエンジンが唸った。

ヤヴイヌのMT-09が先導し、後ろにはTRACER9GT+に無理やりまたがる女将、赤いDAX125で軽やかに滑るマキ、SR500に几帳面に跨る修一郎が続く。

「ちょっと、ナナハン君……! オノレの腹にまた屁ためてへんやろな?」

「ふっふっふ……それは旅のお楽しみってやつよ、女将さん」

「殺意湧くわ!」

そうして、五人は村の奥へ、深い霧の先へ、戻れぬ道を走り出した。

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