マキと修一郎のグルメ旅行8【アニマルスパイヤブイヌ番外編】

目次

巧遅は拙速に如かず

夕暮れどき、まだ空に明るさの残るころ。
「かわはら」の裏口には、青々とした笹が風にそよぎ、ほのかに甘い草の匂いが漂っていた。
夜を前にして、ひぐらしがぽつりぽつりと鳴きはじめる。

ヤヴイヌは、湯冷ましの茶を手に静かに腰掛けていた。
厨房からは、砥石を滑る包丁の音がかすかに聞こえてくる。
しゅっ、しゅっ、と、まるで山間に降る雨のようなリズム。

その音が止まり、やがて女将が静かに裏口に姿を見せた。
薄手の羽織に、袖口からわずかに見える腕が、ほんのり汗ばんでいる。

「……まだいらっしゃったんですか」

「ええ。あの料理の余韻が、まだ……胸の底で燻ってましてね」

女将は何も言わず、隣に立って空を見上げた。
雲は薄く、初夏特有のしっとりとした風が髪をなでる。

「あなたの料理、完璧ですね」

女将は黙ったまま、遠くの竹林に目をやっていた。
ホトトギスが一声、鋭く鳴いた。

「ただ……」ヤヴイヌは言葉を選んで続ける。「余白というのも、必要ではないかと。
料理人がすべて答えを決めてしまうと、食べる側が感じる自由がなくなる気がするんです。
問いかけのある皿、とでも言いますか……」

女将は少し笑った。だがそれは、どこか硬い笑みだった。

「“遊び”はな……命を削ってない者が言うことや」

「あなたほどの方が、なぜそこまで……」

女将はゆっくりと口を開いた。

「昔な……“足りん”言われたことがある。鼠のエサや、ってな。
それを言うた男のせいで、夫も娘も……もう一緒に飯を食べてくれへんようになった」

ヤヴイヌが息を呑む。

「名を“ジョン”ゆうた。でっかい斧みたいな名前や。
あいつにだけは、絶対に食わせたくなかった。——でも、うち、負けてしもたんよ」

笹が大きく揺れ、夜風が女将の髪を乱した。
初夏の夜は、まだ梅雨を迎える前の、少し湿った哀しみに包まれていた。


変態のタクティクス

「なあマキ……わし、ほんま悪かった」

布団の端で寝返りを打ったマキは、返事をしない。

修一郎は、そっと立ち上がり、

一拍おいて、静かにささやいた。

「……ジャックダニエルより、君が酔うんや」

マキがついに声を漏らして笑った。

「アンタな……アホすぎて、逆にかわいそうになってきたわ」

「せやろ? それがわしの戦法や」

マキはため息をついたあと、枕の角で修一郎を軽くつついた。

「ホンマに許したるけど……あんまクサいこと言わんとき」

「うれしいくせに」

障子の外には、初夏の夜風と、遠くで鳴くカエルの声。
そして、もう一度だけ、二人の笑い声が短く響いた。

障子越しに見える二人の影が静かに重なった。

次回、「妖艶」に続く

  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次