幽餉往来(ゆうじょうおうらい)
村の長老であり、永年にわたりこの地を治めてきた村長・伊吹は、何かが変わり始めていることに薄々気づいていた。
「最近……村の者たちの目が、妙に澄んでおる……」
そう呟く彼の表情には、ほんの僅かながら不安の色が浮かんでいた。
極食によって押さえつけられてきた味覚と自由。かつてはその舌を封じることで、完全な支配を実現していたはずだった。
しかし、ここ数日。 夜になると村の広場は不自然なほどに静まり返り、人影は消え、誰に声をかけても「もう寝た」としか返ってこない。
「……まさか、ワシを避けとるのか……?」
だが、それ以上に伊吹を悩ませていたのは——
「ヤヴイヌの霊」が、毎晩やって来ることだった。
最初の夜。 帳が下り、村長が囲炉裏端で夕食を取っていた時のこと。
戸が、ゆっくりと、軋みを上げて開いた。
「……こんばんはぁ……」
血の気のない顔、虚ろな瞳、首に巻かれたナプキン。そこには、死んだはずのヤヴイヌが立っていた。
「……何か、夕餉……ありませんか……」
がくがくと震える手で、村長は保存していた干し芋を差し出した。ヤヴイヌの霊は、それをもぐもぐと咀嚼し、
「……ああ、まあまあですね……明日は……もっと……温かいものを……」
そう言い残し、ふわりと闇に溶けていった。
村長は、その夜一睡もできなかった。
翌晩——
今度は囲炉裏の灰が突然舞い上がり、何故か隣の部屋からヤヴイヌの顔が現れた。
「こんばんはぁ……今日は……なにかなぁ……」
村長は震えながら粥を炊いた。
「……うん、昨日よりは……マシ……でもぉ、まだ……満足できない……」
霊はにやりと笑い、ふたたび闇に溶けた。
そして三日目。
村長が寝床につこうとしたとき、天井裏から滴る音がした。
ぽた……ぽた……
天井の板が腐ったように剥がれ落ち、そこからヤヴイヌが這い出してきた。
「こんばんはぁ……おなか……すいたぁ……」
顔色は蒼白を通り越して青黒く、なぜか尻のあたりから、ぽたぽたと血が流れていた。
「ワシのお尻……あのナナハンに……食われかけたのかも……」
村長は恐怖のあまり失禁した。
「な、なにが欲しいんじゃぁぁ!」
「……シチュー……が、いいなぁ……野菜も、肉もたっぷりのやつ……」
「そ、そんなもん、あるわけないだろが!」
「じゃあ……明日までに用意……しておいてね……」
ヤヴイヌはそう言うと、尻から赤い跡を残しながら、すぅ……と消えた。
***
一方その頃、廃墟の宴はますます盛況を極めていた。
ナナハン君は、村での“肉供給部長”として、ますます調子づいていた。
「見たか? この斧の回転!狙った獲物にバッチリ命中だぜ!」
ジョンの斧はもはや手足のように彼に馴染み、遠投で獲物の眉間を正確に射抜いていた。
鹿の角の隙間をすり抜け、猪の首筋を切り裂き、飛び跳ねる猿も串刺しにする。
誠司はただただ唖然と見つめるしかなかった。
「兄貴、ちょっとやりすぎじゃ……」
「はぁ?何言ってんだよ。あれだけ村人来てんだぜ?肉が足りるわけねえだろ」
「でも……これ以上狩ったら、生態系が……」
「うるせーな、こちとら“食育”してんだよ」
心配した冴子が止めに入った。
「ナナハン、斧の使いすぎはあかん。あれには念が宿っとる」
「うるせー!これでもくらえ!」
ブゥーッ!!
ナナハン君の屁が廃墟に鳴り響いた。
「なんやこの音!音波兵器か!!」
マキが鼻をつまみながら逃げる。
「ちょ……えらい臭いや……」
「おそまつさま!」
「●すぞ!」
修一郎が慌てて換気用の戸を開けるが、時すでに遅し。廃墟には“肉と屁の香り”が立ち込めていた。
その中でも冴子は火を見つめ、静かに呟いた。
「……このままでは、あの斧が……誰かを喰うで」
その言葉を聞いていたのは、風の音だけだった——。
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