マキの整い
マキが堂に入ると、香の香りがやわらかく甘く、けれどどこか腐敗した果実のような匂いに変わっていた。煙がふわふわと彼女の周囲を漂い、目の前の空間がかすんでいく。
「あなたは……“喪失”ではなく、“恍惚”に堕ちています」
「……は?」マキの目がぱちぱちと瞬いた。
「あなたは、尻を触られることに快感を覚えている……しかも、それを言葉という形で昇華している。“変態ポエマー”なのです」
「ちょ、ちょっと待ち……」
煙がさらに濃くなり、記憶と幻想が混ざり合う。
——修一郎の手が、またもやテントの中で尻に触れた瞬間。 『おおきに……今、わたしの丸みは、ひとつの地平線や……』
——あの朝の廊下、ナナハン君がにやついた顔で鼻を鳴らした時。 『羞恥の風は、わたしの丘を撫でて過ぎた……』
——旅館の布団の中、修一郎の指が意味深に這ってきた夜。 『これは、触れられし詩。魂の文脈が、背中を這い寄る……』
「いや、いややっ! そんな詩ちゃう!うちは変態とちゃう!」
「では、なぜあなたは修一郎の手を払いながら、心のどこかで期待しているのですか?」
「それは……あいつが、勝手に……!」
「あなたは、“触れられることで詩が生まれる”と錯覚しているのです。尻という器官を通して、表現という名の快感を得ている」
「やめてぇ……やめてぇや……うちは、詩人なんや……っ」
香がさらに濃くなり、マキの視界はぐにゃりと歪む。
どこからか、修一郎の声が聞こえる—— 『マキ、お前の尻は宇宙のメタファーや』
「この変態女!」
「変態警備員の嫁!」
「不倫!」
「不倫旅行!」
「いやぁぁぁぁぁああ!!」
——刷り込み、完了。
ナナハンの整い
ナナハン君が足を踏み入れた瞬間、堂内の香が変化した。 それは、焼けた脂と血のにおいが混ざったような、獣道の奥に漂うような香りだった。
「うっ……くっせぇ……なんだこの……ブヒッ……」
鼻をひくつかせながら椅子に腰を落とすと、紫煙が彼の鼻孔を満たし、意識がふわりと浮き始める。
「あなたは……“食べる者”ではない。“食べられる者”です」
「は?」
「あなたは、味覚門を通ったはずですが……あれは誤判定。あなたは“ヴタ”です。肉体的にも精神的にも」
「……誰がブタだコラ」
「あなたは“量”に執着している。けれど量とは、ただの飼料です。食の本質に触れぬまま、ただ貪るだけの存在」
煙が強まり、視界の端がうごめく。
——かつて食べ放題の店で、全皿の肉を独占して客と喧嘩した記憶。 ——深夜のコンビニで、冷蔵ケースに鼻を押し付け「肉……肉……」とつぶやいた日。
「あなたは、喰らう快楽の中にしか自己を見出せない。つまり……ブタ」
「ちょ……ちょっと待て。俺はただ、腹が減るのが早くて……」
「あなたは、すでに整えられてきたのです。“社会”という檻の中で、“常識”という餌を与えられ、満腹を錯覚していた。だがあなたの奥底には……肉を求める本能しか残っていない」
——食卓で、サラダを拒絶した記憶。 ——フルコースでパンをちぎるふりをして、ステーキだけを2秒で吸い込んだ記憶。
「あなたは、“供物”として生きることに、気づいていない」
「供物って……俺が誰かの……?」
「あなたは——この村に“選ばれた”食材です」
「あなたはジョン様へのお供え物なのです。今後自覚するように」
ナナハン君の目がかすむ。耳の奥で、咀嚼音が響く。 だれかが、自分を食べているような……そんな幻聴。
「……ブ……ブヒィ……」
——刷り込み、完了。
と思いきや、整いは続く。
「あなたはヴタ。さあ、言ってごらんなさい。ヴータ!」
「あなたはエサ。さあ、言ってごらんなさい。エーサ!」
「飼料を食べ続けたあなたの末路は、食べられることなのです。それが家畜の運命なのです。」
「あなたはヴタ。さあ、言ってごらんなさい。ヴータ!」
「あなたはエサ。さあ、私に続いて言ってみて。エーサ!」
個人的な恨みでもあるのか、ずいぶんと執拗に続く。
そっとカーテンが少しだけ空き、村人が入ってくる。
「村長、お電話ですが…」
「うるさい!整えの最中に入ってくるなと言っているだろうが!私は今忙しいんだ!」
「さあ、続けてごらん。レスラーじゃなくてエーサ!」
「……ブ……ブヒィ……」
——刷り込み、完了。
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