整えの場(ととのえのば)
畑の奥へと続く細道は、徐々に傾斜を増し、周囲はうっそうとした杉林に包まれていった。誰かが落としたような竹かごがひしゃげて転がっており、草履の片方だけが道の端に沈んでいた。
「……ここって、ほんまに村の一部なんか?」マキが足を止め、後ろを振り返る。
「人気が……まったくないな」修一郎も声をひそめた。
「道が妙に生臭ぇな……」ナナハン君が鼻をひくつかせた。
やがて視界が開け、ぽつんと建つ小さな御堂のような建物が現れた。
「伊吹さん……この村は、何とも不思議なところですね」ヤヴイヌが口火を切る。
「極食のために、整えが必要だと聞きましたが……一体、どういう意味ですか?」女将が真剣なまなざしで尋ねた。
息吹は一歩前に出て、手を広げた。 「“極食”は、すべての感覚が澄んでいないと真価を発揮しません。皆様は、まだ“濁り”の中におられる」
「じゃあ……あの量の少ない、味の薄い料理は……その準備段階ってことですか?」マキが疑いの目を向ける。
「そうです。味覚の鈍りを剥がし、記憶を消し去り、欲を削ぎ、己を真に“整える”。それが“整えの場”の役目です」
「記憶まで……って、なんやねんそれ……」修一郎がつぶやいた。
「あなたがたには、“整え”が必要だと、村が判断しました」
「村が……判断した?」ナナハン君の声が低くなる。
「おや、気に障りましたか?」息吹は笑った。
その瞬間、ナナハン君が一歩前に出る。「だったら俺に聞けよ。俺は“量”って答えたんだ。こんな少ねぇもんで整うかっての」
「“量”……なるほど。けれど、それは“飽食”という毒です。あなたはまだ、食の入口にすら立てていない」
「うるせぇな……説教はいい、肉持ってこい!」
その発言に、息吹は少し眉を動かした。
「あなたはそう・・・動物のようですね。今、食に対して聡明そうな皆さんに本当の美食の説明をしているところです。ただ・・私の見立てだとあなただけは、どうやら欄外のようですね・・。どうして動物味覚の殿方が混入してしまったのか・・。あなたはその・・異物のようだ。よく味覚門をくぐれましたね。」
息吹は慎重に言葉を選んでいるようだったが、その言い回しは余計にナナハン君を刺激したご様子だった。
「ブヒッ……」と鼻を鳴らしたその時、息吹の眼差しがわずかに鋭さを帯びた。
「あなたはブタなのですか?食材として村に入る事が出来たのかもしれませんね・・。なるほど。ただ、残念ながらこの村ではポークを必要とはしていません。なぜなら、極食は野菜のみで達成されるからです。なので、あなたは不要かもしれません。」
息吹は慎重に言葉を選んでいるようだったが、その言い回しは余計にナナハン君を刺激したご様子だった。
「あんたが言いたいことはよくわからねぇ・・。ただ、要所要所で腹が立つ気がする」
すると、急に息吹の表情がふっと優しくなった。
「ではブタ——もといあなたには、特別な“整え”を用意しましょう」
そう言って、彼は小堂の扉を開いた。 中には……木の椅子、手桶、縄……そして何より、空気が異様だった。ぬめりつくような湿気と、仄かに甘い匂い。
「お一人ずつ、“整えの儀”を受けていただきます。どうぞ、覚悟なさって」
——五人は、背筋を這う寒気を感じながら、それでもその場を離れることができなかった。
息吹の笑みは深まり、次の言葉をゆっくりと紡いだ。
「極食とは、口から始まるすべての“在り方”を問うものなのです。皆様の在り方を、整えさせていただきます」
喪失の味(そうしつのあじ)
最初に堂内へと導かれたのは、ヤヴイヌだった。
「わたしから?まあ、妥当ですね。食を見極めるには順序というものがある」
そう言いながらも、足取りはやや固い。振り返ることなく、ヤヴイヌは小堂の中へと消えた。
扉が閉まると、周囲の空気が沈黙に包まれる。誰もが耳を澄ませたが、堂内からは物音ひとつ聞こえなかった。
やがて十五分ほど経った頃、再び扉が開く。
「……次、どなたか」
息吹の声は穏やかで、微笑みすら浮かべていた。ヤヴイヌの姿は、見えなかった。
「ヤヴイヌは……?」
女将の問いかけに、息吹はやんわりと首を横に振った。「ただいま“整え”の最中でして。安心なさって」
「ワシ、行きます」女将が立ち上がった。目には怯えも迷いもなかった。
再び扉が閉まる。
——どれほどの時が過ぎただろうか。
その間、残された三人はそれぞれの思考に沈んでいた。
ナナハン君は胡座をかいて鼻を鳴らし、マキは修一郎の手を無言で払った。修一郎はというと、彼女の反応すら無視して、手帳の端に詩的な何かを書き留めている。
そして、再び扉が開く——
「次は、そちらの女性を」
息吹がマキに目を向けた。
「……いやや。うち、あんなん入りたない」
「大丈夫です。整えは……あなたの中の、奥底にある“喪失”を、優しく包むだけです」
「……喪失……?」
マキの顔がこわばる。修一郎が立ち上がり、彼女の前に出た。「マキは俺が守る。順番は俺が代わる」
息吹はそれを否定しなかった。「では……どうぞ」
「あなたはきっと・・聡明な方だ。何事にも観察力に長けていて、それでいて胆力もお持ちだ。」
修一郎はまんざらではなさそうだった。
堂内に入る直前、修一郎は振り返って微笑んだ。「……俺の内臓の詩を、後で聞いてくれ」
「いや、聞かんでええ」マキが即座に返す。
——扉が閉まる。
そして、最後に残されたのはマキとナナハン君。
「なんやねんこの空気」マキがうんざりしたように呟いた。
「……あいつら、帰ってこねぇな」ナナハン君が立ち上がる。「俺はもう、我慢ならねぇ。次、俺が行く」
「ブヒッ」と鼻を鳴らして小堂に向かおうとしたその時、息吹が立ちふさがった。
「あなたには——特別な整えを、別室にて受けていただきます」
「……は?」
「あなたは“喪失”ではなく、“獣性”。整えの方法が異なります」
そう言って、息吹は別の扉を指差した。重く、鉄でできたような扉だった。
「……まさか、豚小屋じゃねぇだろうな?」
「いえ。“整え”のための、特別な空間です。ヴタ・・いえいえ、神聖なる獣性の方のために、強めの麻酔・・いえいえ、整えるための空間をご用意したまでです。」
ナナハン君は渋い顔で立ち止まり、マキを一瞥した。
「……もし俺が戻らなかったら、お前がメシ全部食っとけよ」
「せやな……おかず残してへんかったら怒るで」
ナナハン君は肩をすくめ、鉄の扉を開けて中へと入った。
そして再び——閉ざされる扉。
残されたマキは、一人きりの空気の中で、小さくつぶやいた。
「……何が“整え”やねん。気持ち悪い……」
けれど。
ほんのわずかに、己の胸の奥が、妙な期待に揺れていた。
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