第二章 一汁一答
林道を抜けた先、視界のすべてを白い霧が覆っていた。
エンジン音を止めた五人の呼吸だけが、湿った空気にゆらゆらと漂っている。地面は赤土まじりのぬかるみで、足を踏み出すたびに「ぐちゅ」と小さな音を漏らした。
「なぁ、これ……道か? もう獣道にも見えへんけど」 修一郎が半ば本気で振り返る。
「ええから進み。バイク停めた時点で、もう引き返すには遅いで」 と、女将。
霧の中から、突如としてそれは現れた。
ひときわ高い杉の木々のあいだに、黒ずんだ石の鳥居がぽつりと立っていた。その奥には、苔むした石段と、重く朽ちかけた木製の門が佇んでいた。
門の上部には「味覚門」と記された木札が打ちつけられており、そのすぐ横の小屋から細い煙が立ちのぼっていた。
「あれ……誰か、いる?」
ヤヴイヌがふと視線を向けた先、小屋の障子がわずかに動き、何者かの影が通り過ぎたように見えた。気配はしたが、出てくる様子はない。
「どうやら、これ……裏で人が動かしてるみたいやな」 女将が呟く。
門の中央には、円形の板が埋め込まれており、そこから錆びついたスピーカーのようなものが突き出していた。
『問います。“本当のおいしさ”とは——何ですか』
——スピーカーから、乾いた女の声が響いた。
「え、マジのやつ……?」 マキがそっと他の顔を見る。
女将:「いきなり答えたらあかんのちゃう? 打ち合わせようや。いっぺんしか答えられへん可能性あるし」 女将が制す。
修一郎:「俺、うま味って線でいこうかと思ったんやけど」 修一郎が手を挙げると、ヤヴイヌが即座に否定する。
ヤヴイヌ:「違うな。“うま味”ってのは化学的概念だ。官能じゃない。“本当の”とは、つまり状況や記憶にまつわる文脈も含めてのことだ」
マキ:「記憶やろ、やっぱ。子供の頃のカレーとか、母親が作った味噌汁とか」 マキがふんわり言うと、女将はわずかにうなずいた。
女将:「せやな……“懐かしさ”ってのは、味に深く関わっとる」
マキ:「記憶やろ、やっぱ。子供の頃のカレーとか、母親が作った味噌汁とか」 マキがふんわり言うと、女将はわずかにうなずいた。
女将:「せやな……“懐かしさ”ってのは、味に深く関わっとる」
女将は言葉を継いだ。
女将:「けどな……ワシは思うんや。ほんまのおいしさっちゅうのは、料理人の祈りや。素材の命を預かって、火を入れて、形にして、それを誰かの命に変える……その気持ちが皿に乗ってるかどうかやと思うわ」
マキが、静かに頷く。
女将:「手間やない。技術やない。想いのないもんは、ただの作業や。せやからワシは、どんなに丁寧なもんでも、心のない料理は嫌いや」
修一郎:「ちゃうちゃう、心理状態や。空腹とか、幸福感とか、そういう“食べ手の状態”が重要やろ」 修一郎が続けて言う。
「いや、それも違う。そもそも味とは記号や。社会的意味を伴う文化的な……」
皆:「めんどくさ!!」
全員の意見が交錯する中、ヤヴイヌだけが口を閉じ、門を見つめていた。
彼は思い出していた。 ——若い頃、ここに来たことがある。鳥居を見た。しかし引き返した。 そのとき、確かにこの門もあった。
けれど……こんなにも、人間じみていたか?
まるで、誰かに試されているような、試す側がこちらの議論を聞いているような、そんな居心地の悪さ。
「……おそらく、誰かが我々の様子を見ている」 彼がそう呟いた瞬間——
ナナハン:「ブヒィィィ!!量!!」
突然、ナナハン君が叫んだ。
「量だ!! 足りなきゃうまくねぇ。満たされてこそ味だ!!」
全員が言葉を失う中、ナナハン君は立ち上がり、門に向かって両手を広げた。
「肉! 皿に山盛り! 腹がはち切れるまで食ってこそ、最高の味ってもんよ!」
その瞬間、門が震えた。
『——解答を受理しました』
「は?」
門が、ぎい……と音を立ててゆっくり開いた。
うす暗い石畳の通路が、吸い込まれるように奥へと続いていた。
「……え、ナナハンの答え、正解やったん?」
「ほんまに? “量”で?」
「……狂ってるな、ここのセンス」
ヤヴイヌが眉間を押さえながら、ひとりごとのように呟いた。
そして、彼らは吸い込まれるように、その村の中へと足を踏み入れた。
極食ノ村。
食を極めるという名を持ち、かつて沈んだはずの、禁忌の味覚が支配する場所へ。
第三章 口切ノ宿(くちきりのやど)
村の空気は、森とはまるで違っていた。
ぬるく湿った風が足元から吹き上げ、どこか底冷えするような感触が背筋をなぞる。霧がゆっくりと晴れていく先に、古びた木造の平屋が姿を現した。
「……宿屋か? あれ」
マキが呟いた。
苔むした瓦屋根、傾いだ軒、軋むように開いた格子戸。その入口に打ちつけられている札には、かろうじて“口切ノ宿”と読める墨文字が残っていた。
「口切って……あれやろ。茶道とかで最初に封を切るときの言葉や」 修一郎がぼそりと呟く。
「せやけど、それが“宿”の名前になってるとはなぁ……。いやな予感しかしないわ」 女将が吐き捨てるように言った。
五人はそろりとその建物へ足を踏み入れる。
そのとき、列のいちばん後ろの方にいた修一郎は、前を歩くマキの気配にちらりと目をやった。
──チャンスや。
皆が異様な空気と匂いに集中するなか、修一郎はさりげなく手を前へと伸ばし、尻を触った。
すっ……。
「……っ」
マキの目が一瞬鋭くなったが、すぐに平静を装う。
「やめぇって」
唇だけがそう言っていた。
だが修一郎は止まらない。 あくまで自然な流れを装って、袖で隠すようにして指を這わせると、
「ハフハフ……ええ塩梅やな……」
「は?」
「いや、何でもない」
数歩進んだところでもう一度。
「おぉ……蒸篭から上がる白玉団子……指が沈む感覚が、風雅や……エクセレント!」
「風雅なわけあるか、アホ」
マキの声は低いが、頬はやや赤い。
「すまん、けど……もう一度お邪魔させていただいて……ハフ!」
「しつこいな!」
さらに進んだ先で、またも。
「……おおぅ……たとえるなら、牛乳で煮た桃……いや違う、煮すぎた白子……」
「もうええ加減にせぇ」
その瞬間だった。
バキッ!
「ぐああっ!!」
乾いた音が廊下に響いた。
マキが無言で修一郎の中指を逆関節にひねり上げていた。
「お前の指、料理に例えるなら“煮崩れた里芋”や。あとな、二度目に触った時点でアウトやからな」
「す、すま……ぐぅぅぅ……」
後ろからつつくナナハン君の靴音が近づき、修一郎は何事もなかったかのように襟を正した。
「なにニヤついてんだ、変態野郎」 「いやいや、なんでも……」
床板は湿気に負けてたわみ、かすかに腐臭が漂っていた。けれどその中に、かすかに鼻をくすぐる香ばしい匂いもあった。
「……これは、昆布だな」 ヤヴイヌが床の隅に残された器を拾い上げ、指で縁をなぞった。 「お吸い物。三日、いや四日は経ってるか」
「誰か、ついさっきまでいた感じやな……」 女将が襖の奥を覗き込みながら言った。
「……なんもないわりに、腹減る匂いだけしやがる」 ナナハン君はすでに腹を鳴らしていた。
部屋の奥には、大きなちゃぶ台と囲炉裏があり、そこには五人分の席がきっちりと用意されていた。 湯呑み、箸、そして空の椀。
「……なんやこれ」
「歓迎されてんのか、それとも……待たれてたんか?」
ふと、壁の一点に視線が吸い寄せられる。
そこには、木彫りの額に収められた一枚の墨絵が掛かっていた。 墨だけで描かれた料理の絵。 皿の上には、山のように盛られた“肉”が、まるで花のように咲いていた。
「……この構図……どこかで見たことある……」 ヤヴイヌが目を細めた。
「いややわぁ……なんやここ。なんで“用意”されとるんやろ」
マキが吐息をもらした瞬間——
「……よう来なすったな」
囲炉裏の奥、屏風の陰から、すすけた白装束の老婆が姿を現した。 その手には、金色に燻んだ柄杓。
「おまえら……『口切り』の献立を、ようけ味わうがええ」
老婆の笑みに、誰もが言葉を失った。
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