女将の風格
マキの怒号に包まれた座敷は、一瞬にして緊張の色を深めた。
「なんでやの、なんでこんなとこまで来て、あんな目に遭わなあかんねん……!」
マキは湯呑を握った手をぶるぶると震わせた。修一郎はそれを見て、しばし何かを言うべきか考えていたようだったが、やがておそるおそるマスクを少しずらし、申し訳程度に声を出した。
「その……風、あんまり直接は浴びてなかったんとちゃうかなと……横風やったし」
「横風て!」
再び炸裂したマキの声に、襖の向こうで女将が咳払いをした。まるで「客同士の小競り合いはほどほどに」とでも言いたげな、咎める音だった。
だが、あれだけ怒っていたマキも、女将の咳一つで口をつぐんだ。それほどに、この宿では女将の存在が静かに圧を持っていた。
やがて、夕食の片付けが始まった。
女将は何事もなかったかのように、無言で膳を一つずつ丁寧に下げていく。その指先に乱れはなかったが、よく見れば、いつもより手元の動きがわずかに早い。
「お口直し、出せんままでしたね」
そう言って膳を引きながら、女将がぽつりと呟いた。
マキは一瞬、女将の表情を見つめたが、彼女はもう視線を合わせることなく、音もなく座敷を出て行った。
居間に残ったのは、怒りが冷めきらないマキ、やや萎縮した修一郎、そして不在のナナハンの“残り香”だけだった。
「……もう寝よ」
マキはそう言い、ふてくされたように立ち上がる。修一郎はそれを追いかけるように、少し慌てて立ち上がった。
「明日は、静かに、な……」
「うるさい!」
ぴしゃりと言い放って、マキは部屋を出て行った。
(やってもうた……)
修一郎は畳の上で正座して、手を膝に置いた。
「マキ、あれは屁の分析やなくて、ただの無神経やったな……」
呟いて、そっとマスクをポケットに戻す。
・・・明日はしつこく耳元で5回くらい謝ろう。
修一郎はいつものように一人反省会を開くのだった。それが事態をより悪化させるとは思っていないようだった。
海からの風が障子をわずかに鳴らした。
宿「かわむら」の夕餉は、こうして幕を閉じた。 続く
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