妖艶
虫の音が柔らかく網戸越しにしみ入り、波の音が遠く背後でくゆるように続く。
民宿「かわはら」の一室。畳の匂いと潮の気配がまじる空間に、ひときわ甘ったるい気配が満ちていた。
「……まきちゃん。今夜の君は、まるで蛍だ」
「蛍? なんやそれ。光ってるってこと?」
「そうだ。君のうなじが、月の光に照らされて……いや違う、照らすというより、月が君に照らされてる気がしてならない。天体が君の引力にひざまずいている」
「もう、また始まったな修ちゃんの星空ポエム……」
「違うんだマキちゃん、これは天文じゃない、天啓だ……君の髪を、少し、こう……撫でるたびに、俺の人生が軌道修正されていくのがわかる……」
「なんやそれ。ほんま甘い言葉の百貨店やなあ、修ちゃん。……でも、ええよ? うち、修ちゃんの言葉、めっちゃすきやわ」
「ほんとうに?」
「……ほんまやって。うち、修ちゃんの声聞くと、心の奥がやわらかくなるんよ。さわったら、溶けそうなくらいに」
「マキ……マキ、俺……俺はいま、君の頬に、そっと口づけを落とすことを、国会に提出したい」
「なんでやねん、誰が賛成するんよ、そんなん!」
「全会一致で可決されてほしい……君の微笑みには、政党すら超える説得力があるんだ……」
ふたりは笑い合い、静かに寄り添った。
室内に灯る間接照明の明かりが、ふたつの影を畳の上に重ね合わせていく。
マキがそっと修一郎の胸に指を置く。
「……あったかいな、修ちゃん。なんでやろ、こうしてると、どこにも帰らんでいいような気がするわ」
「君がいるなら、俺はどこにでも根を張れる。蛍でも、流星でも、いっそ灯台でもなろう……」
「……じゃあ、うちは船やな。迷っても、修ちゃんの灯りに向かって帰るって決めてるんや」
「マキ……」
ふたりの手が絡まり、吐息が静かに溶ける。
——そのときだった。
「ゴホン……ッ、ゴホ…ブヒ…」
どこかぎこちない咳が、襖の向こう、廊下の奥から響いた。
「……今の、誰か通った?」
マキが上半身を少し起こす。
「気のせいじゃないかな、ほら、田舎の夜は音がよく響くから」
「……せやな。うん、つづき、な?」
「……ああ、マキ……この瞬間だけは、星も海も、俺たちのために時を止めるべきなんだ」
——だが、その“星と海”は、まだ静止してはくれなかった。
「なあ、マキ……」
修一郎の声は、どこか舞台俳優のような熱を帯びている。
「おまえの声を聞くだけで、心が沸騰しそうだ。いや、もう煮こごりになるくらいトロットロや」
「トロットロて……そないな言葉、初めて聞いたわ」
「そうや、トロトロの恋なんや。まるで出汁で煮込んだ関西おでんみたいに……」
「うち、出汁にはうるさいで?」
「せやからや。君は、俺の一番深い味を、何層にも染み込ませてくれる……」
「……修ちゃん、ほんま、あんたってば」
マキはくすぐったそうに笑い、修一郎の頬をそっと撫でた。
「マキ。マキィィ……君は俺の月や。いや、月と太陽のハイブリッドや」
「そんな都合ええ存在あるかいな」
「ある。君がそうや」
「……」
マキはたまらず笑いながら、修一郎の首に手をまわす。
「さっき、窓開けたときの月の光が、君の肌に反射してな。あれはもう反則やった。犯罪級や」
「アカンやん、犯罪は」
「でも俺、もう一生刑務所にいてもええ。君の囚人になるなら」
「修ちゃん……アホやな」
そう言って、マキは小さく囁いた。「せやけど、うち……その囚人、独房で面会したるわ」
――カタン。
不意に、隣の部屋の窓が、軋むような音を立てて開いた。
ふたりの動きが止まる。
「……風やろか?」とマキが言う。
「いや、今夜は風、あらへん……」
修一郎の目が細くなる。
廊下の先、誰かの気配が、音もなく引いていくような錯覚。
「気のせいかな」
「……やろな」
そう言いながらも、修一郎はマキの耳元にそっと囁く。
「でも大丈夫。誰に見られてもええ。俺らの愛は、天然記念物級や」
「いややわぁ、保護対象てこと?」
「そう。壊れやすいけど、ものすごく尊い。触れる人間には、資格がいる……」
「じゃあ、修ちゃんは資格、持っとるん?」
「もちろん。免許皆伝、マキ愛撫師範代や」
「……何それ」
マキは腹を抱えて笑った。
だがその背中を、またもやひんやりとした気配が撫でていく。
マキはふと窓の方を見て、囁くように言った。
「……修ちゃん」
「ん?」
「……さっきの窓、やっぱり誰かおった気ぃする」
「……気のせいであってほしいな」
「せやな」
ふたりは再び唇を重ねた。
畳の上に交差する二人の手。
初夏の夜は肌をぴたりと重ねるにはやや汗ばむが、それさえも甘い蜜のように思えた。
「修ちゃん……」
マキの指先が、修一郎の耳の後ろをなぞる。
「その声だけで、俺もう……天の川、越えてしもたわ」
「七夕、まだやろ」
「でも俺の中では、もう織姫に会えてもうた。……織姫、マキ姫」
「……修ちゃん、ほんまアホやな」
マキの手が、修一郎の胸をなぞる。
「なあ、マキ。君のその鎖骨、箸置きにしたら一汁三菜が映えそうや」
「ちょっと何ゆうてんの、修ちゃん」
「ちゃうねん。ほんまに綺麗で、和食器置きたくなるねん。唐津とか、伊万里とか」
「箸置き言うな、もう」
そう言いながらマキは、修一郎の顎にキスを落とす。
そのとき――
――「ヘークションッッ・・ブヒ!!」
突き抜けるような、派手なくしゃみの音が、襖越しに響いた。
ふたりがまたもや凍りつく。
「……いまの、誰?」
マキの声が、急に冷えた空気に染まった。
「んー、まあ……偶然ちゃうか?」
「ちょっと、音でかすぎへん?」
「……季節の変わり目やし」
「いや、あれは絶対、気ぃ引こうとしてたやろ」
修一郎は少しだけ困った顔で天井を見上げた。
「気ぃ引く……誰が?」
「さあな……でも、さっきの窓の音も含めて、ちょっと不自然すぎるやろ」
マキの眉間に、うっすらと皺が寄る。
しかし、そんな雰囲気さえ、修一郎は甘く溶かす。
「まあまあ……でも考えてみ? たとえくしゃみが邪魔したとしても、君の吐息のほうがずっと耳に残る」
「……あほくさ」
「それくらい君の声は美しい、という話や」
「ほんまに、修ちゃんは口が達者やな……」
「せやろ。言葉は恋の前菜や。君の心に、まず箸休めの甘酢和えみたいに沁みさせる」
「……そないに言うなら、もっと濃いもん食べさせてや」
マキの声が、ほんの少し艶を帯びる。
「お安い御用や」
修一郎がそう囁いた瞬間、ふたたび襖の向こうで誰かが小さく鼻をすする音が聞こえた。
「ズビ!」
ふたりは、今度は言葉を交わさず、ただ一瞬目を見合わせ――、
「……ほんまに、偶然なん?」
「……偶然、かもな」
どちらともなく呟き、再び重なる唇。
その背後に、月は音もなく雲に隠れはじめていた。
時刻はすでに深夜一時を回っていた。
外では初夏の風が、竹の葉をさわさわと撫でていたが、民宿「かわむら」の一室、修一郎とマキの部屋だけは、湿度の高い緊張感に包まれていた。
マキは、さっきまでの怪奇現象の記憶を払うように、布団の中で修一郎の胸に頬を埋めている。
「なぁ……修ちゃん。今日はほんまに、もう……邪魔されたくないなぁ」
「それにしても……」
マキの指が修一郎のシャツのボタンを一つずつ外していく。
「さっきの続きを、な……?」
「もちろん……」
修一郎は微笑みながら、マキの額に唇を落とした。
ようやく、今度こそ、ふたりの間に静けさが戻り──
──「ブヒーッ!!!」
突如、廊下の向こうから叫ぶような大声が響いた。
「!!!」
「な、なに!?」
「ブ……ブヒーッて……なにや今の!?豚!?」
マキは上体を起こし、布団をたぐり寄せながら部屋の襖を睨んだ。
「……いや……ナナハン君やろ……たぶん……」
修一郎は目を伏せてつぶやく。
「なんでやねん!!もうなんなん!?ブヒーッて何!?イノシシなん!?」
「もしくは、食後の喜びの声……?」
「は?」
修一郎はごくりと唾を飲み込みながら説明するように続けた。
「さっき、夕食後の談話室で、ナナハン君が『美味い肉を食べたら叫ぶクセがある』ってヤヴイヌとかいうやつが……」
「そんなクセあるかい!!!」
「まぁ……個性ということで……」
マキは怒りと呆れと笑いの狭間で肩を震わせた。
「もういやや……この民宿、呪われてる……」
「いや、ナナハン君が呪いや」
そのときだった。
二人の枕もとの襖が音もなく10センチほど開いた。そして、その隙間から温い風が入り込んできた。
──「ブーッ!!」
「ぎゃあああああああああ!!!」
マキの悲鳴が宿全体に響いた。
ナナハン君の分身は、襖の隙間から二人の枕もとに流れ込みマキの髪を優しく揺らした。
その刹那マキの鼻腔や眼球に新鮮な分身が多数付着した。
「くっさ!なにこれ!?窓開ける!修ちゃん開けて!!」
「うぉぉ……これは……熟成された焼きホルモンの香り……昨日の、いや一昨日の……」
修一郎は冷静に成分を嗅ぎ分けようとしていたが、すぐにマキの拳が飛んできた。
「アホか!!!鼻つまめや!!!」
襖の隙間から、誰かの笑い声が聞こえてきた。その声の主はとても幸せそうに声を立てていた。
ハハハハハ!ブヒヒヒヒヒ♪
「誰やっ!」
マキが襖をぴしゃっと開けると、すでにそこには誰もいなかった。ただ、マキはその匂いを知っていた。
続く
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