女将の記憶 ―貝殻坂の灯
あの夏も、今日のように潮の匂いが重たく、風が吹いては肌にべたついた。
遠い昔、まだ「かわむら」が家族で営む漁師宿だった頃の話だ。
女将――名を冴子(さえこ)という――は、まだ二十代の半ば。
父と兄と三人で細々と客を迎え、海からの恵みを食卓にのせていた。
ある日、ふらりとやってきた若い男がいた。
大柄で、よく食べるが、礼儀をわきまえた様子だった。
(どこか今のアイツに似ていた……そう、ナナハン君という、あの図体ばかりの)
「この村で食べられるもの、全部出してくれ」
彼はそう言った。まるで試すように。
冴子は、精一杯腕をふるった。海老の鬼殻焼き、鯵の姿造り、イカの肝煮に潮汁――
味には自信があった。いや、それまで誰にも文句を言われたことなど、なかった。
だが、男は一口食べて首をかしげた。
「……で、この量?」
冴子の手が止まった。
男は笑っていた。けして怒っていたわけではない。ただ、楽しそうに、飄々と。
「オレさ、米だけでお腹いっぱいになりたくないんだよね」
兄が怒り出しそうになるのを制して、冴子は頭を下げた。
男は食べるのをやめ、カバンから近所のチェーン店のハンバーガーを5つ取り出すと、ムシャムシャと食べ始めた。
「ブッ!」
そして、大きな屁をして立ち去って行った。硫黄のような独特なにおいが漂っていた。
彼が去ったあと、食卓には、手をつけられなかった料理と、骨の散らばった魚の残骸だけが残った。
その日から、彼女は食事を出すたびに、どこか胸の奥がざらつくようになった。
(ああ、“足りない”と思われたのだ)
(わたしの料理は、“満たせなかった”のだ)
やがて兄は事故で海に沈み、冴子はひとり残された。
宿を改装し、静かな和の宿として再出発したとき、心に誓った。
(もう、食べることで誰にも踏みにじられたくない)
(料理とは、客に媚びるものではない――こちらが示す敬意である)
そんな彼女の前に、あの日の“影”が再び現れたのが、つい先日――
ナナハン君だった。
彼は同じようにふらりと現れ、同じように言った。
「これで終わり……じゃないですよね?」
笑っていた。
あの日の男とは違う。
だが、匂いがしたのだ――同じ“無神経な飢え”の、そして硫黄の。
復讐の夕餉
目の前では、マキが白身の刺身をつまみ、微笑んでいる。
「わあ……口ほどけやな……ねっとりせず、ふわっとほどける。潮の香りだけが、後から残るのがええなぁ」
冴子は一瞬、ほんの一瞬だけ顔を綻ばせた。
――その言葉は、正しく届いていた。
一方、修一郎はすでに三品目の説明を始めていた。
「いや、この器の選定が素晴らしい。青磁と繊維質の白身の対比、さらに葉脈の緑の彩りが構図として完成されて……」
(うるさい)
冴子の眉間に、かすかに皺が寄った。
その時、硫黄が口を開いた。
「刺身とは、素材を引き出すもの……。でも、これは料理人が勝ちすぎているかもしれませんね」
――ピシッ
冴子の口元が、わずかに強張る。
「勝ちすぎている、とは……どういう意味でしょうか?」
彼女は、凍るような声で問い返した。
「いえ……わたしのような素人が口を挟むのも失礼ですが……。料理の意図が、少し強すぎるような気がして……」
「“強すぎる”ではなく、“明確”と言ってくださいな」
冴子の返しに、部屋の空気が一瞬張り詰める。
修一郎が慌てて間に入る。
「いやいや、私はとても繊細で優しいと思いましたよ? 意図と技巧が調和していると申しますか……」
マキが、くすりと笑った。
「せやな。まあ、料理も会話も、余白がある方がええんちゃう?」
冴子はふっと、息を吐いた。
この夜、最後まで穏やかに終わるとは思えない。
(だけど、それでも料理は出す。わたしの覚悟は、皿の上にしかない)
再び現れたあの男の影には二度と負けまいー。
その頃ヤヴイヌは、おしっこを我慢していた。続く
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