朝餉の和(あさげのなごみ)
薄曇りの朝。座敷には静かな気配が満ちていた。
低い木の天井にかすかに反響するのは、湯呑みに注がれる番茶の音と、味噌汁の湯気が鼻先をかすめるときの小さな吐息だけだった。
ナナハン君、マキ、修一郎、ヤヴイヌ、そして女将。 五人は昨夜と同じ膳に座りながらも、空気はどこか和らいでいた。
ナナハン君は終始、無言だった。どこか居心地悪そうに背を丸め、箸を器用に操っては黙々と料理を口に運ぶ。
「……うまい」 ぽつりと呟かれたその一言に、女将の指先が一瞬だけ震えた。
「お口に合って何よりです」 女将は控えめにそう返したが、その声には昨夜の刺々しさはなかった。
ヤヴイヌは湯気の立つ土鍋を覗き込むと、目を細めてうなずいた。 「鰆(さわら)の幽庵焼き、ですね。昨日よりも少し、柚子のあしらいが柔らかい。……これは、あえてですか?」
「ええ。昨日のあなたのお言葉が、少しばかり胸に残りまして」 女将は微笑むように目を伏せた。
「昨夜は少し、生意気が過ぎました。」 ヤヴイヌが静かに呟くと、女将は湯呑みに手を添え、しばし視線を落とした。
修一郎は相変わらず丁寧な所作で一つひとつの料理を持ち上げては、恍惚とした表情で語り始める。
「この出汁巻き卵の甘みと塩味のバランス……まるで初夏の風が山肌を撫でるような……」
「そこまで言わんでええねん……」と、マキは半ばあきれつつも、微笑みを浮かべる。
「でも、うちも思た。なんやろ……この味、なんか優しいわ。昨日とはちゃうね」
女将はその言葉に、そっと微笑を返した。
ナナハン君は、器に残った最後の一口を見つめたまま、しばし動かなかった。 やがて、彼はひとつ息を吐き、ぽつりと言った。
「……俺、味のこととか、ようわからん。ただ、これ……なんか、量が全然足らん」
その言葉が、座敷に静かに落ちる。
誰も続けて何も言わなかったが、五人の間にほんのわずか、温かな空気が通った。
マキはナナハン君をちらりと見た。まだ髪に残るあの臭い――思い出すだけで眉をしかめたくなる。 けれど、そのナナハン君が呟いた言葉に、不意に心が揺れた。 なんやろ……憎たらしいけど、あの人も人なんやな……。
夏の気配を孕んだ初夏の風が、障子の隙間からふわりと舞い込んできた。 その風は、昨夜のざらついた空気を、少しずつ撫でるようにほどいていった。
極食ノ村
食後、ヤヴイヌはぽつりと席を立ち、宿の帳場横に設けられた小さな本棚へ向かった。 古びた背表紙が並ぶ中、ひときわ薄い和綴じの一冊が、彼の目に留まった。
「……極食ノ村の記録?」
手に取り、ぱらぱらとめくったページの中に、彼の目は釘付けになった。
「これは……」
戻ってきたヤヴイヌが女将の前に座りなおすと、その本を差し出した。
「ところで……“極食ノ村”って、ご存じですか?」
その瞬間、女将の目が凍った。
「……なぜ、それを」
女将の声は、今までにないほど低く、そしてかすれていた。
「日本食の歴史を調べていた時、何度か出てきたんです。極食ノ村。――そこに入った者は、食があまりにも完璧すぎて、二度と戻らなかった。そんな記述が、断片的に、ですが」
誰も動かなかった。静まり返った座敷に、風の通り抜ける音だけが響いていた。
女将はしばらく視線を落とし、やがて湯呑みに口をつけた。
「……あれは、もう百三十年も前のことです」
彼女の声は、湯気の向こうにゆらめく記憶のように、かすかだった。
「極食ノ村。そう呼ばれた集落が、北の山あいにありました。すでに物語の中にしかなく、とっくに村ごとダムに沈んだと聞いていたのです。もちろん現存するのであれば……」
女将の言葉は、そこでふいに途切れた。だがその顔には、消し去れぬ何かが残っていた。
「行きたかったけれど、私には場所もわからなかった。……ただ、あの村は今も実在すると、私は思っています」
そのとき、ヤヴイヌが静かに口を開いた。
「……実は、若い頃、一度だけ“入口”まで辿り着いたことがあるんです」
全員が息を呑んだ。
「そこには“味覚門”と呼ばれる関門がありました。入る者の味覚が試される……そんな仕組みがあったんです」
ヤヴイヌは唇を噛んだ。
「そのときの私は未熟で……門を越えることはできませんでした。今なら――もしかすると、と思わなくもありませんが」
風が再び吹き抜け、朝の座敷に余韻のような沈黙をもたらした。
五人の心には、見えない道がひとすじ、描かれ始めていた。
* * *
「その場所、行きたいわ」
女将がぽつりと呟いた。珍しく、ほんの少し声が弾んでいた。
「うちもや……もし本当にあるなら、見てみたい」 マキも言った。どこか少女のような目で。
「……あそこは、普通じゃない」 ヤヴイヌの声が、やや低く響いた。「味覚門の先にあるあの気配……何か、人を試すような……そして、行ったものは帰ってこないという言い伝えも気になります。」
そのとき、ナナハン君が修一郎をじっと見つめた。
几帳面に正座し、背筋を伸ばし、膝上で手を重ねる修一郎。その工事用蛍光ベストが、薄明かりの中でぎらりと反射した。
「なあ……こいつ、極度の変態なんちゃうか?」
「は?」
全員の視線が修一郎に集まった。
「この格好、人前に出る格好と思うか?ありえないだろ、黒いマスクなんかして。」
「大体、連れの変態女も朝廊下ですれ違ったら屁の匂いがすんだよ。こんな狂ったカップル、まともじゃぁないと俺は思うね」
ナナハン君の言葉に、マキが思わず絶句し、女将は目を丸くした。
「……なんでそんな方向に話がいくのよ」
「変態を連れて極食ノ村なんか行けるか。なんや呪われそうや」
「お、おい……! ただの作業服やぞ」 修一郎は慌てて弁明したが、誰も聞いていなかった。
それはまだ小さなひび割れだったが、昨夜までの軋みとは違う、やわらかな裂け目だった。
この五人が、どこへ向かっていくのかは、まだ誰にもわからなかった。
マキと修一郎のグルメ旅行 完
極食ノ村編に続く
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