イケナイ二人
日本海の風は、七月の夕暮れになると一層濃く潮の匂いを運んでくる。
民宿「かわむら」は、小さな入江の突端に建つ、一見普通の昭和風民宿だ。
看板は苔むして、もはや読むのも困難だが、それでも訪れる者は後を絶たない。
“本物の和食”を知る人間なら、一度はここを目指す──そんな噂だけが独り歩きしていた。
ざらり、と海砂を踏む足音がした。
「……やっぱええとこやねえ、しゅーちゃん。空気がちゃうわ。」
マキは陽に焼けた石段に腰を下ろし、裸足のつま先をぱたぱたさせた。
生成りのワンピースが風にそよぎ、肩を少しだけ露出している。
関西訛りの柔らかい口調とは裏腹に、どこか挑発的な目つきが男の心を揺さぶる。
「こら、マキ。そんなとこ座るな。砂がつく。俺のタオル貸すから……」
修一郎は焦った様子で小走りに近寄り、即座にバッグから畳まれたタオルを取り出す。
その姿は、まるで現場の交通整理の延長だった。
さっぱりとした短髪、ズボンは真面目な黒、足元はライディングシューズ。
だが胸元にはしっかりと、蛍光イエローの安全ベストが光っている。
「しゅーちゃん、海でまでその格好なん?」
「……俺はいつでも“整理”していたいんや。」
「ほんま、几帳面すぎやわ。そんなんやからいつもストレスためとんやで。」
マキは冗談めかして笑ったが、その目はどこか真実を突いていた。
修一郎は苦笑し、上着の内ポケットからジャックダニエルの小瓶を取り出す。
ひと口、いやふた口。
ようやく喉が落ち着いてきたのか、彼はため息とともに座り込んだ。
「ほら、ちょっと飲んでみ。旅の疲れが吹っ飛ぶぞ。」
「やめとくわ。あたしは、ええ空気吸ってたい。」
ふたりはしばし、何も言わず、打ち寄せる波の音だけを聴いていた。
「そろそろ宿に戻らんとね。」
・・・時間にうるさい修一郎が言った。
下品な二人
沈黙を破るように、爆音を響かせながら一台のバイクが砂利道に滑り込んできた。
ヤマハ TRACER9GT+。
雰囲気を壊すような、でかい音とぎらついた図体。卵持ちの蟹のような鉄の塊にまたがる男は、まるで乗り物の一部のようにぴったりと食い込んでいた。
白のメッシュジャケット、ズボンはライダースジーンズ。少年のような青いキャップをかぶっていた。
しかし、何よりも異様だったのは、その表情だった。
「うお〜〜〜〜!腹減ったあああああ!!」
降り立った大柄な男は、地元の老犬が寝そべっていた玄関前をものともせずに踏み越え、
「ここが和食で有名なかわむらかぁ~!」と叫びながら突進してきた。
「ちょ、ナナハン君、落ち着いて!まずはチェックインを済ませてからだ。」
後ろから追いついた男は、小柄で裾の余ったズボン、アホみたいな恰好をしていた。
「予約はヤヴイヌの名でしてあるはずです、お世話になります」
ヤヴイヌは、鼻にかかった声で早口にそう言いながら、宿の女将にどこかインチキ臭い男がそうするように名刺を渡した。
そこには細かい金文字でこう書かれていた。
食道道中膝栗毛
食文化評論家 ヤヴ・イヌ~The bush dog~
女将は一瞬だけ顔をしかめたが、すぐに微笑みを取り戻し「ようこそ」と案内を始めた。
「……食事は、夜の七時半にお座敷でお出しいたします。今宵は、日本海の幸と山里の恵みをお楽しみください」
「私はビッグマックセットで」ナナハン君が言った。
ナナハン君はすでに、ロビーの竹細工の椅子に仰向けで寝転がり、靴も脱がず足を振っている。
その足元には、先ほどまで女将の飼い犬だったと思しき動物の尻尾だけが残っていた。
「……まあ、腹の足しにはなるな。……」
ヤヴイヌは舌打ちしながらも、目だけは鋭く周囲を観察していた。
そうして、民宿「かわはら」にまたひと組、奇妙な宿泊客が加わった。 続く
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